大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

神戸地方裁判所 昭和62年(タ)18号 判決

原告 甲花子

右訴訟代理人弁護士 秋友浩

被告 神戸地方検察庁検事正 宮本冨士男

主文

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  原告と亡乙山松夫(本籍《省略》昭和二二年二月四日死亡。)及び乙山竹子(本籍右に同じ。昭和六〇年一二月二七日死亡。)との間に親子関係が存在することを確認する。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  亡乙山松夫(以下たんに「松夫」という。本籍《省略》大正九年七月二三日生れ、昭和二二年二月四日死亡。)は、昭和一六年五月二六日亡乙山竹子(以下たんに「竹子」という。昭和六〇年一二月二七日死亡。)と婚姻し、同人らの間に長男一夫(昭和一七年四月二〇日旧満洲国ハルピン市で出生。)及び長女春子(同一九年六月二六日松夫の本籍地で出生。)の二子がいる。

2  原告は、いわゆる中国残留孤児であって、中華人民共和国のfile_2.jpg照(旅券)を有する中国人であり、肩書住所において、氏名甲花子、国籍中国として外国人登録をしているが、真実は松夫と竹子との間の長女春子である。その事情は次のとおりである。

(一) 松夫と竹子の夫婦は旧満洲ハルピン市に居住し、松夫は砂糖会社に勤務していたが、昭和二〇年八月敗戦のあと、原告らと共に撫順市に逃れ、日本開拓団の難民集団に入ったところ、同年九月か一〇月ころ、松夫は原告を近在の甲五郎に預けた。そして松夫は昭和二一年日本に帰還したが、竹子と兄一夫は原告と同様中国に残留した。

(二) 原告は一五才位まで甲に養育されたが、その後丙八郎に預けられ、中国名も甲花子から丙花枝となった。

(三) 原告は、撫順市において義父甲五郎に養育され、幼少時から自己が日本人であることは知っていたが、昭和五一年末ころ、自己の経歴を証明する必要があって、甲に証明書の作成を依頼したところ、証明書によると、甲は昭和二〇年一〇月撫順市内で女児を預かったが、預けた男性は、この女児を生後約八ヵ月で名は乙山夏子であると述べた、としている。

(四) 原告は、自己の名と甲に預けられた状況が判明したので、日本国厚生省に問い合せをするなどしていたところ、昭和五四年夏ころ、竹子の妹の乙田梅子から原告に対し、母の竹子が中国河北省に居住しているとの連絡があり、原告は同年九月母の竹子と面会することができた。その際竹子は原告を乙山春子と確認したので、原告と春子が同一人であることは疑いの余地がない。

(五) 原告は、竹子と面会の際、同人から聞いた話の内容は次のとおりである。すなわち、

(イ)松夫、竹子の夫婦は、神戸からハルピンに渡り、さらに撫順に移ったが、兄はハルピン生れ、原告は竹子が神戸市垂水に帰って生れた。(ロ)父の松夫は原告を甲に預けたのち日本に帰国した。(ハ)当時三才位の兄がいた。

一方、竹子から日本国厚生省宛の手紙によると、同人は次のとおり述べている。すなわち、

(イ)同人らはハルピン砂糖に勤務していたが、終戦の際家族全員で撫順に行き日本開拓団の難民の中に入った。(ロ)松夫はその頃春子を中国人に売り、自分も中国人に売られた。(ハ)松夫は一夫を連れてハルピンに行く旨述べていた。

(六) 原告につき、昭和五一年五月三日付で厚生省援護局の公開調査(第四回)が開始されている。その後の厚生省の調査で「中国名甲花子もしくは丙花代」は「乙山春子」であることが判明し、原告は昭和五六年中第一次訪日孤児調査団の一員として来日した。その際原告は、いとこの丁原菊夫(松夫の姉杉子の子、《住所省略》)らと面接の結果、身元確認がなされた。

3  原告は昭和五七年二月日本国に帰国したが、国内の肉親関係との不和や中国在住の養母の病気のため中国に帰った。昭和五九年八月養母が死亡したので、原告は再度来日しようとしたが、肉親が甲花子と乙山春子とは別人であるなどと主張して身元引受を拒んだので、再入国が延引していたところ、知人が身元を引受けてくれて昭和六一年五月二七日帰国することができた。

4  原告は、帰国後在住地の明石市長に対し、外国人登録による甲花子ではなく、日本国籍を有する乙山春子である旨認定されたいと申し出たが、同市長は法務省の行政指導により右の取扱いは不可能であるとして応じない。

5  そこで、原告は、原告と亡松夫及び亡竹子との間に親子関係が存在することの確認を求めて本訴に及ぶ。

二  被告の本案前の主張と請求原因に対する認否

(本案前の主張)

原告の本訴請求は不適法で却下すべきである。すなわち、

松夫、竹子夫婦と春子とが親子関係にあることは当事者間に争いがないのであるが、原告の本訴請求の争点は原告と春子とが同一人であるか否かの一点である。つまり本訴請求は親子関係存在確認請求の形をとっているものの、実質は親子関係の存否ではなく、原告と春子との同一性の確認を求めるものであって、ひっきょう事実の確認を求めるにすぎない。確認の訴えは、書面真否確認の訴え(民訴法二二五条)のように法がとくに例外として認めた場合を除き、権利又は法律関係の存否を対象とする場合にだけ許されるものであって、事実の存否の確認を求める訴えは許されない。したがって、本訴請求は、実質的に原告が春子であるという事実の確認を求めるだけの請求であるし、かつ本件においては、右のような事実の存否の確認を求める訴えを例外的に許さなければならないほど、原告の権利又は法律的地位に危険ないし不安が現にかつ具体的に存在するという事情はなく、本訴請求を許容すべき必要性は存しないから、不適法であって却下されるべきである。

(請求原因に対する認否)

請求原因事実中、松夫、竹子夫婦の間に長女春子が出生していることは認めるが、その余は不知。

原告が春子と同一人であるという的確な根拠はなく、関係者間の記憶等にもそごがあることからみて、原告は春子と同一人ではないといわざるをえない。

三  被告の本案前の主張に対する原告の反論

原告の本訴請求は訴えの利益があり適法である。

人の身分は戸籍により公証され、戸籍の記載が真実の身分関係と一致するならば、身分関係存否確認の訴えを提起する必要はなくその余地もない。したがって一般的には戸籍訂正の必要が訴えの利益であると解してよいが、しかし、例えば婚姻の一方当事者が人違いを主張するときに、人違いでないことを主張して婚姻関係の存否確認の訴えを提起する場合のように、戸籍訂正とは関係なく訴えの利益が認められる訴えも存する。本件は右の事例に属する。すなわち、日本国籍を有する「乙山春子」が松夫、竹子との間の長女であることは戸籍上明らかである。

しかし、原告は中華人民共和国のfile_3.jpg照(旅券)を有し、中国人甲花子として外国人登録をしている者であり、日本国の戸籍関係者は原告を春子と扱っているわけではないし、春子の親族は原告が春子であることを否認している。このような場合、原告においてその身分関係を明らかにするためには、原告と春子が同一人であることを立証して松夫、竹子との間に親子関係が存在することを確認する判決を取得する以外に方法はない。したがって原告の本訴は訴えの利益がある。

第三証拠《省略》

理由

一  まず原告の本訴請求は確認の訴えの利益を欠く旨の被告の本案前の主張について判断する。

(一)  《証拠省略》によれば、照美(本籍《省略》、大正九年七月二三日生れ、昭和二二年二月四日死亡。)と竹子(本籍 松夫と同じ、大正一三年一月二六日生れ、昭和六〇年一二月二七日死亡。)は、昭和一六年五月二六日婚姻の届出をした夫婦であり、その間に長男一夫(昭和一七年四月一九日生れ。)及び長女春子(昭和一九年六月二五日生れ)の二子が出生していること、その旨記載の戸籍が現存すること、一方、原告はいわゆる中国残留日本人孤児として中華人民共和国(以下たんに「中国」という。)発行のfile_4.jpg照(旅券)を所持してその家族と共に来日し、肩書住所において、氏名甲花子国籍中国として外国人登録をしている者であることが認められる。しかるに、原告は、真実は松夫と竹子夫婦との間に出生した長女春子であって、松夫及び竹子との間に親子関係が存在するところ、松夫の親族がこれを争うので本訴請求に及ぶと主張する。

(二)  なるほど親子関係は自然の血縁的な事実にもとづく事実関係であるが、法律は一定の要件をみたす場合に法律的な関係と認め、これに親権、相続などの法律的効果を付しているのであるから、親子関係は法律関係といわなければならない。本訴においては、原告と春子とが同一人であるかどうかが争点となっているが、事実関係を基礎づけるにとどまり、本訴は松夫及び竹子と原告との間に法律関係である親子関係の存否を確認することにあり、原告と春子との同一性といった事実の確認を対象とするものではないというべきである。一方、春子自体の身分関係を公証する戸籍の記載は真実に合致しているので、右戸籍の記載を訂正する必要はなく、したがって原告としては戸籍訂正のために親子関係の存否確認を求める訴えの利益は存しないけれども、親子関係の存否確認の訴えは、必ずしも戸籍訂正に限られないし、松夫及び竹子との間に親子関係が存在するという原告の法的地位が争われて不安があるならば、これを解決するための手段としては、終局判決をもって右親子関係の存否を確認するほかないのであるから、原告の本訴請求は確認の訴えの利益があると解するのが相当である。してみると、被告の本案前の主張は理由がなく採りえない。

二  進んで本案について検討する。

(一)  《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

1  松夫は父乙山松太郎、母マツの長男で、父戊田竹太郎、母タケの三女である竹子と結婚したが(昭和一六年五月二六日婚姻届出)、竹子の両親は右結婚に反対し、同女を勘当していたところ、松夫、竹子の夫婦は、昭和一六年中、当時旧満洲ハルピン市に居住していた松夫の姉栗子を頼って渡満した。

なお松夫ら夫婦が渡満した際、父松太郎及び栗子の実子一郎(昭和六年八月二八日生れ、なお同人は、戸籍上は父松太郎、母マツの二男として出生したように届出られ、その旨記載されているが、実際は栗子の婚外子として出生した者である。)とが同行し、松太郎は日本の敗戦前に帰国したが、一郎は敗戦後もハルピン市に留まり、母栗子と同居していた。

2  松夫、竹子夫婦の間に長男一夫が昭和一七年四月一九日旧満洲国ハルピン市《番地省略》で出生した。そして昭和一八年中松夫ら夫婦は一夫を連れて日本に帰国し、竹子は神戸市内の同女の実家に立寄ることがあったようである。次いで松夫、竹子夫婦の間に長女春子が昭和一九年六月二五日当時の松夫の本籍地である神戸市須磨区《番地省略》で出生し、翌二六日父松夫から出生届出がされて入籍となっている。

3  松夫らは再度渡満してハルピン市で居住し、昭和二〇年八月一五日の日本の敗戦時、そのころ松夫は砂糖を扱う会社に勤務していた。一方、栗子、一郎ら母子もハルピン市で生活し、松夫ら家族と交際していたのであるが、敗戦後は交流が絶たれ、別途の運命をたどった。そのころ一郎は一四才の少年であり、母の栗子からの伝聞であるが、栗子の言うところによると、松夫、竹子夫婦は、戦後松夫が一夫を、竹子が春子を、それぞれ引取って夫婦別れをし、別行動をとるにいたったという。当時栗子はイギリス人と内縁の夫婦関係にあり、敗戦後もハルピン市に留まり、一郎が母の栗子や弟妹と共に日本に帰国したのは昭和二八年八月ころである。なお栗子は帰国後の昭和二九年三月八日神戸市内で死亡している。

4  一郎の記憶によると、松夫は、男手で一夫を養育することができなくなって、ハルピン市で一夫を中国人の養子にやり、戦後間もない頃に一人で日本に帰国したと言う。

松夫は一人で帰国したものの、結核を患い、昭和二二年二月四日父松太郎のもとで死亡している。松夫の姉に当る丁原杉子の二男菊夫(昭和六年七月一九日生れ)の記憶によると、松夫は、杉子らに帰国までの様子を尋ねられた際、家族は満洲で死亡してしまったなどと答えていたとのことである。

5  原告は、もの心がつく頃には中国遼寧省撫順市で甲五郎の子甲花子として養育されていたところ、小学生時代に友達より中国人ではなく日本人であると聞かされ、日本人であることを自覚していたが、当時は養父に尋ねても身上を教えてもらえなかった。原告は甲に一五才まで養育されたところ、甲方の生活が苦しくなったため、近所の丙八郎の養子となり、丙花枝と名乗ることになった。そして原告は一六才から二二才までの間各地を巡業する旅芸人の仕事に従事し、一九才の時にいまも同居している夫の丙太郎と結婚した。

6  その後原告は、勤務する会社で履歴書が必要なことがあり、養父の甲に照会して次のような自らの身上を知るにいたった。

甲の述べるところによると、「同人は一九四五年(昭和二〇年)一〇月二五日ころ、撫順市西一路を通りかかったところ、あまり背の高くない日本人と会い、日本の難民であるが子供をもらってくれといった申出があり、その人は男の子と女の子の二人を連れていたので、女の子の方を引取ることにした。甲の問いに、その日本人は山口県出身者で飴を製造する会社をやっており、女の子の名前は乙山夏子で年齢は生後八ヵ月であると答えていた。三日位後にその日本人が甲の許を訪ねたので、五〇元を渡したが、以後その日本人とは音信がない。甲は引取った女の子を甲花子と名付けたが、この子は勉強がよくできた。同女が一五才の時、甲方の生活が困難となったため、近所の丙八郎の子供がなかったので、撫順の裁判所の審理を経て甲花子を同人の養子とし、養育費の負担を免れることになったが、そこで甲花子は丙花枝と改名した」と。

7  原告は、自らの身上を知って、中国の関係当局を通じ、日本の厚生省援護局に依嘱して日本人の父母、肉親の身元確認につとめた。厚生省援護局により昭和五一年以降原告につき肉親探しの公開調査が行われたものの、身元確認は進捗せず、原告は、日本在住のボランティアの山本茲照に肉親探しを依頼する手紙を何回も出した。

5 一方、竹子の妹乙田梅子は広島県呉市内で居住する者であるが、松夫、竹子夫婦の間に長男一夫が出生していることは同児とも会い知っていたが、長女春子が出生していることは全く知ることがなかった。梅子は昭和五二、三年ころ厚生省援護局を通じ姉の竹子が中国で生存していて日本にいる肉親の消息を尋ねている旨知らされた。援護局から竹子の中国の住所を知らされ、梅子と竹子との間に文通が始まったが、竹子の手紙によると、終戦時松夫らは撫順におり、竹子は病気になったところ、夫の松夫は竹子と子供二人を中国人に売ってその金で日本に帰国し、竹子は売られた中国人と結婚し、その間に子供が出生しているとのことであった。

ところで、竹子は、原告に関しては、原告が第一次訪日の中国残留日本人孤児として、その写真と経歴が朝日新聞に掲載されているのを見て、原告の詳しい経歴を長野県内に住むボランティアの山本茲照から取寄せ、その写しを竹子に送付し、原告が同人の娘ではないのかと照会したところ、竹子から梅子に原告が自分の娘と思うから原告にその旨伝えて欲しいとの手紙が来たので、中国在住の原告に竹子の住所と右伝言を手紙で知らせた。また梅子は、竹子と原告の双方から戸籍謄本の送付を依頼されたので、神戸市垂水区役所から取寄せて送ってやった。ところが竹子から梅子に対し、原告に関する手紙はそれきりで、竹子と原告との間にどのような交渉があったのか、その後の経過を知らせる便りは全くなかったし、竹子と梅子との間も没交渉になった。

その後原告から梅子に対し、再三日本に行きたいので身元引受人になってくれるよう言ってきたけれども断った。そのうち昭和五六年三月原告が中国残留日本人孤児の一員として来日するので、厚生省援護局から梅子に対し、原告が同人の姪かどうか確認して欲しい旨の連絡があったが、梅子としては、これまで原告と会ったことはなく、すでに原告が中国在住の母親と会っているのに、何のための来日か見当がつかず、援護局からの要請を断わり、原告と面接することはなかった。

9  原告は、中国遼寧省撫順市清原県北大街五委二八組に在住していたが、梅子からの手紙で母の竹子が中国河北省東鹿県孟家郷文郎口村に居住していることを知り、一九七九年(昭和五四年)九月中同所に竹子を訪ねた。竹子は丁竹夫と結婚しており、その間に四人の子が出生していた。そこで原告は、竹子から娘の春子であると確認され、父は松夫であり日本に帰国したこと、父が原告を甲方に預けたこと、竹子が原告の幼時に甲方に会いに来たが養父に追い返されて会えなかったこと、当時原告には三才位の兄が一人いたが、撫順市で別れたきり、いまどこにいるかわからないといったことを聞いた。そして原告は竹子ら家族と共に撮影した写真を携えて在住地に帰った。

10  ところで昭和五五年中、《住居省略》に居住する丁原菊夫の両親丁原杉夫、杉子に宛て、中国在住の原告から、自分は乙山春子であること、伯父伯母が懐しく文通してもらえたら嬉しいといった内容の手紙が届いた。当時すでに杉夫は死亡していたのであるが、杉子は存命中であり(なお同人は昭和六一年一〇月二三日死亡。)、原告の右手紙をきっかけとして、以後菊夫と原告との間に文通が続いた。後日談になるが、原告がどうして丁原杉夫、杉子の住所を知って同人ら宛に手紙を出すことができたかを聞くと、原告は竹子と会った際に杉夫らの名前を聞き、そこで日本在住のボランティアに頼んで杉夫らの住所を調査してもらったということであった。菊夫は原告との手紙を乙山松太郎の兄の子で松太郎の本家筋に当る乙山次郎に知らせ、原告にも次郎を紹介したので、原告と次郎との間でも文通が続いた。菊夫への手紙で、原告は中国で苦労している、日本の肉親に会いたく日本へ行きたいと訴えてきていたので、菊夫は原告に日本円一〇万円を送金し、原告は昭和五六年三月初旬中国残留日本人孤児の一員として来日した。

11  来日に際し、原告は父が松夫、母が竹子で自らは春子であることを知っている者として来日した。その際の厚生省援護局が集めた調査資料の中に、中国在住の竹子の供述書があり、それによると、同人は昭和二〇年八月の終戦時ハルピン市にいたが、夫と二人の子供連れで撫順に行き、同市内の学校に収容されていた日本開拓団の中に難民として入った、九月頃同人が病気になり、夫の松夫は春子をおんぶして市場へ出かけて帰ってくると、春子がいないので、どうしたのかと尋ねると、中国人に春子を二〇円で売ったと言い、開拓団の団長が食事の代金をくれないと学校から出て行けと言っていたので、その金を団長に上げた、その後夫は同人を市場に連れて行き、中国人の女中になれ、自分は一夫を連れてハルピンに行くと申し、同人をいま夫となっている中国人の丁竹夫に売った、同人は以後中国の村で三〇年余苦労の生活をしているといった趣旨のことが記載されている。また調査資料中に乙山一夫であるという中国名戊月夫作成の供述書や原告の養父であった甲五郎作成の供述書(その内容は、前記の原告の身上を述べているところと同様である。)も存する。

12  原告の来日に際し、丁原菊夫と乙山一郎が上京し、原告と面接したが、原告を松夫、竹子夫婦の長女春子と認め、身元引受人となり、原告を神戸市に同伴した。菊夫らが原告を春子と認めたのは、もともと確信があって身元確認をしたわけではなく、先に原告から菊夫の両親の住所氏名を知った手紙があり、その後菊夫らとの間に一年近く文通が続いたことから人情もからみ、雰囲気で菊夫らの肉親の可能性が高いと思えたことが根拠となっていた。

13  一方、自らも渡満し、ハルピン市で松夫、竹子夫婦と生活を一緒にしたことがあるので、幼時の一夫や春子を知っている乙山一郎は、前記のとおり、昭和二八年八月ころ実母の栗子らと共に日本に帰国し、神戸市内に居住していたものであるが、原告の訪日に先立つ何年か前に、兵庫県援護課を通じ、中国河北省に乙山竹子という女性がいて帰国したがっているので、身元引受人になってくれないかといった要請があった。しかし、一郎は在満中の竹子との交際で同人に対し不快感を抱いていたところから、竹子の身内との連絡をすすめて、自らは身元引受人となることを断わった。そして後日呉市に在住の竹子の妹に当る乙田梅子と連絡がとれたということを聞いた。そのうち一郎は、再び兵庫県援護課より、中国で春子と名乗る原告が河北省にいる竹子と会い、竹子が原告を春子と認め親子対面をしたいということで、原告が帰国したがっているので身元引受人になってくれないかといった依頼を受けたが、原告と春子が同一人であることは確認しようがないとの思いから、身元引受人となることを断った。

原告が来日した際、一郎には何の連絡もなかったが、一郎は、菊夫と次郎が原告と面接し、原告を春子と同一人と認めて神戸市に同伴したことを知り、一郎自ら多少中国語がわかるので原告と会って話したところ、原告の記憶する情況と一郎自身の記憶するところとはつじつまが合わず、また原告は竹子と会ったとは言うものの、かねて帰国したいと言ってきている竹子の具体的事情を語ることがなかったので、原告が果して春子と同一人なのかどうか幾分不審の念を抱いた。そして菊夫に原告が春子であるかどうか不明ではないのかと尋ねると、菊夫は原告が日本人の子であることは間違いないのだし、事ここにいたったからには原告を春子として世話しようと言うので、一郎としても菊夫らの意向に従うことにした。

14  原告は、一旦中国に帰り、昭和五七年二月に夫の丙太郎及びその間に出生した二男二女の四子と六人家族で日本に永住するということで帰国し、次郎が所有する借家の一戸に入居した。そこで一郎は、原告とその長女の二人を知り合いの中華料理店に就職の世話をし、かつ原告の長男を一郎の営む鉄工所に預り仕事を覚えさせようとした。ところが原告と長女は、ほんの短期間勤めただけで一郎にも無断で中華料理店を辞めてしまい、また長男の方も、仕事を覚えようとする気持が乏しく、まともに働くことがないまま、二ヵ月位で勝手に辞めてしまったので、一郎の怒りを買い、親戚付き合いも疎遠になってしまった。一方原告一家と菊夫や次郎らとの間柄においても、日常の生活面でたんに言葉の行き違いというだけにとどまらない確執が生じ、紛糾を重ねて軋轢を深めた。日本で原告一家は生活保護を受けて生活していたが、菊夫らとの間で不和が続くし、昭和五九年五月にいたり、そのころ中国にいる甲方の原告の養母が病気ということもあって、原告一家は中国に帰って行った。

15  一郎や菊夫らは、日本に帰国した原告と交際するうち、原告が言うように、松夫が撫順に行って竹子や子供を中国人に売りひとり日本に帰国したといったことは、やさしい人柄であった松夫を思うと考えられないことであり、また原告の身上に関する原告の養父の話しも、幼児を預けた男性の背格好と出身地がその男が松夫であるとすると、実際の松夫とは相違するところがあり、また預った幼児の年齢が八ヵ月位というと、当時の春子の年齢に対比して差異があること、一郎が実母の栗子から伝聞した松夫の行動からすると、養父の話し自体どうも符合していないといった感じをもった。さらに菊夫らのもとに、中国在住の竹子から一夫かも知れないと紹介されてくる中国残留日本人孤児が一人ならず二人、三人と出現し、身元引受人となってくれと求められることがあり、しかし結局それらの人はすべて一夫とは人違いであったということが判明し、竹子自身の認識にも長年月の空白から誤りがあるように思われ、そうなると竹子が原告を春子と認めたということさえ疑わしいといった感じを菊夫らにおいて抱くにいたり、一郎などは、竹子自身が日本に帰国したいのに身元引受人になってくれる人がいないので、原告を自分の子供と認めて日本に帰国させたら自分も帰国できるとの思惑から原告を春子と認めたのではないかといった勘繰りさえ持った。

16  一方、原告はその家族ともども中国に帰ったが、その後病気であった養母が死亡し、原告は、その家族と再び日本に帰国することを希望した。ところが菊夫らにおいて原告の身上に疑念を抱き、原告は春子と同一人ではないと言い出し、原告の身元引受人となることを拒否したので、原告らは日本への再入国がかなわず延引し、結局ボランティアの知人が身元引受人となってくれて、ようやく昭和六一年五月二七日に日本に帰国するにいたった。そして原告が中国に帰っている間の昭和六〇年一二月二七日に竹子は中国の在住地で死亡した。

原告ら家族は、日本に帰国したものの、一郎や菊夫ら次郎の親族とは全く交流していないし、原告と乙田梅子との間でも付き合いがないままに過ぎている。

(二)  右認定の事実によると、松夫、竹子夫婦は、その間に出生の長男一夫、長女春子と共に昭和二〇年八月一五日の日本の敗戦時旧満洲ハルピン市に居住していたが、戦後松夫ら一家は離散し、松夫のみが日本に帰国できたものの、同人も帰国後間もない昭和二二年二月四日に死亡していること、一方竹子は中国に在留し、中国人丁竹夫と結婚して中国河北省東鹿県孟家郷文郎口村で居住していたこと、そして同人も昭和六〇年一二月二七日同所で死亡したことは、明らかに認めることのできる事実である。一方、原告は、昭和二〇年日本の敗戦時の混乱期に旧満洲撫順市において中国人甲五郎に預けられ、同人を養父として成育したものであるが、原告が松夫、竹子夫婦間に出生の長女春子であるとする最大の根拠は、原告が昭和五四年九月中国在住の竹子と会い、竹子が原告を娘の春子と認めて母子対面をしたということに存する。しかしながら竹子が原告を春子と認めたとはいうものの、どのような理由、根拠から原告を春子と認めたのか、その事情は全然明らかではない。他方松夫の親族に当る菊夫や次郎が中国残留日本人孤児として肉親探しに来日した原告を春子と認めたということも、根拠、確信があってのことではなく、いってみれば竹子が原告を娘の春子と認めていたとの事情に帰着するが、その後に疑念を抱くにいたっている。原告が養父甲五郎に預けられた情況も、原告を同人に預けた日本人男性が果して松夫であるのかどうか、関係者の記憶をたどっても曖昧さが残り不明というほかない。

もとより親子関係の存否は影響するところが大きく、その認定には慎重さを要請されるところである。本件において、竹子が原告を娘の春子と認めたというのであり、当の母親が対面した娘を自らの子と認めたということであれば、その事実は尊重されるべきであるけれども、しかしながら、竹子自身が中国に在留し、原告を春子と認めるにいたった理由、根拠はいまひとつ明らかではなく、いまでは竹子は死亡してしまっていて、そのことを認めるよすがもない。他方、一旦原告を春子と認めて受け入れた松夫の親族において、原告がその家族と共に日本に帰国した後に原告及びその家族との間に生じた不和、軋轢からくる疎隔感情の事情を考慮したにせよ、竹子が原告を春子と認めたことに疑惑を抱くにいたり、原告を春子と同一人と目することに否定的になっていることをもって、理由のない疑念として否定しきる事情は見当らないのである。

結局、前記認定事実によるも、当裁判所は、原告が松夫、竹子夫婦との間に出生した長女の春子と同一人であり、松夫及び竹子と原告とが親子であることの心証を惹きえない。そうとすると、原告と亡松夫及び亡竹子との間に親子関係が存在することを肯認するに足る証拠はなく、右親子関係の存在を認めることはできない。

三  右の次第で原告の本訴請求は理由がないといわなければならないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 坂詰幸次郎)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例